息子の観点

いつものようにまず瞑想から。
今日はグランディングラインをつたって、
最も気になる人の身体に入り、その人の感覚を感じてみるというもの。

まず抵抗感があった。単純に他人の身体は嫌だし、
またその人に対して失礼ではないかというような気持ちがして躊躇した。
そのような抵抗を意識しつつも、気付いたらもう入っていたけど。

息子の胸の中にいるとき、“箸が転がっても可笑しい”愉快な感覚がした。
私にもあったあの楽しいひととき、友人たちと放課後の教室で笑い転げたあのときと同じ経験を、
息子は今、エンジョイしているんだな、素晴らしいな、満喫して欲しいなといったことを思った。

次に第3の目の辺りから、私のことを見る。
好感を持っているような感じがした。
少女のような人だなと感じた。
そしてひとりで(好きなように)過ごしているんだなと見ている感じだった。

息子にこのように思われているようですと正直にシェアすることはできなかった。
“痛い人”と思われたくなくて、違う言い方を口にして真実から少し遠ざかってしまった。
私にはこのような傾向がある。
こんなことを言ったらオカシイと思われるのではないか、スカシてると思われるのではないかと
算段して、当たり障りのない言葉に置き換えて発言する、
それはどんどん一人歩きをしていって、私とは違う私になっていって、
こんなんじゃないのにという違和感を感じながらもそれを生きる、
ということを繰り返してきたな・・・静かな気持ちで反芻する。

これだから私はダメなのよ!などと判決を下さずに、自分に優しく接したい。
湧き上がる思いをそのままにしておける勇気と耐性を持ちたいね、
そしてその思いがもたらす本当の世界に連れて行ってもらいたいね、と。

リードしながらそれを一緒に見てくれた奈奈さんには、
ひとりで寂しそうではなく、そうしているんだねという見守るような気持ちを感じた、
子どもとお母さんという関係性が逆転しているような、彼が見守っている感じ。
それはキリストの目ですね・・・というようなことを言われた。

そうであれば、
その少女には楽しい幸せな人生を歩んでほしいと願ってくれていることでしょう。