“心”というものについての概念

真心、心尽くし、心を込める、心遣い、、、
心についてのたくさんの熟語を見ると、日本人はこの「心」を善、
もっと言うと神聖に近いものとして捉えていると思われるが、
ここに日本人の限界点があるように思う。


海外の精神、スピリチュアルに関する本を読むうちに、
“心”というものについて、我々日本人が持っているイメージと、
その他の国の人が持つイメージとでは、どうも違うらしいという気がしてならない。

そもそもこの“心”とは何かを明確に説明することができない。
頭の中の鳴り止まないおしゃべり〈思考〉、この思考に反応したものが〈感情〉。
では“心”とはいったい何か。
それは、こねくり回す“場”、“容器”といったものではないだろうか。

思考、感情というものは単純に言えば、エゴの部類である。
この思考と感情を混ぜ合わすボウル、こねくり回す調理台が“心”ではないか。
このボウルを磨いたり、ひたすら洗ったりして、その透明度を維持しようとする。
あるいはどんな材質で、厚みがどうこうといったことに拘る。
がしかし、粉を用いれば汚れる。
卵や牛乳、調味料などを、こねくり回すためにあるのだから。
それがどのような形や厚みであろうが、そんなことはまったく重要ではない。