願いを差し出す

私は幼い頃、ある被害にあいました。
誰が悪いとか、何が悪かったからとかそういう次元の話ではないのですが、
ひとつ心当たりというか自覚があるのです。
それはこのおじちゃんだったら優しくしてくれる、
欲しいものを買ってくれると甘い言葉に飛びついたということです。

何と賤しく恥ずかしいことだろう。
その頃から誰かに期待して生きようとしていたのか。
などとまたまた厳しいジャッジをしてしまいそうになりましたが、
いつものやり方は脇に置き、そこをもっと見ることにしました。

飢えていた
というフレーズが浮かびました。
私は自分が何かを求めてもいいと許可されたかったし、
(それは缶ジュースを飲んでみたいというささやかな望みでした)
自分を大事に扱われてみたかったのです。

それがどうしてああいうことになってしまうのか・・・
それはわかりませんが。

私はだいぶ後になるまでこのことを親に話しませんでした。
被害に遭ったことを打ち明ければ、この親がどんな行動に出るか想像できたので、
そんなことをされてはこの土地で生きてはいけないと思ったからです。
近所で、学校で、キズモノにされた娘として噂されるのは耐えられなかった。
ただでさえアル中患者の娘なのです。
加害者と同じ団地の中で幾度となく顔を合わせる恐怖を
どうにか押さえつけそこで生きました。

社会人になった頃、母に打ち明けました。
踏んでも踏んでももたげてくる苦い思いを救って欲しかったです。
しかし母から返ってきた答えは
あんたが泊まりに行きたいと言ったからでしょと
責任はこっちにはないと言わんばかりのものでした。
そこで糸は切れてしまいました。

わたしは未だに母を磔にしているでしょうか。
そうだとしたらここに何を訂正するのでしょうか。

飢えていた
父も母も飢えていました。
お金に、食べものに、彼らの両親からの愛に、そしてお互いからの愛に飢えていました。
欲しくて、叶わなくて、どうしようもなくて、
それをあのようにぶつけ合っていたのでしょう。

彼らも神の子に違いありません。
罪などありません。
気付いていないだけで、間違いなく神の子。

私も同じです。
親に求め、夫に求め、得られないことに執着するあまり、
こどもを大切にできませんでした。

これがどのように訂正されるのでしょう。
それは私の心の切望を差し出して、です。
これを聖霊に使っていただいて、です。

私は欲しいものを求めても良い(怖い目になど遭わない)、
私は愛され大事にされる、
このことを体験したいです。