渇望

一ヶ月の日本滞在を終えて、息子はまた外国へ戻っていった。

何日に発つのか、何時の便かも言わず、
その都度こちらから訊ねなければ知らされない虚しさ。

送って行く父親だけが彼の家族と思っているのか、
私のこれまでの子育てで心底嫌われたのか、、、。
そんなことではなく、それが思春期の男の子の普通の姿、
なのかもしれないが、一つの懸念が胸をよぎる。

息子が父親と同じことをするのではなかろうか。
息子が結婚したときもお嫁さんがこういう悲しみを味わうのではないか。



息子の父親は何をするにも事後報告、
いや報告すらしないというゴーイングマイウエイぶりで、
結婚当初からそれはよく揉めたのだけれど、
まったく 改まる気配すらなく、信頼関係を築けず離婚に至る。

元夫の父、つまり息子にとっての祖父もまったく同じタイプであり、
初めの妻は飛び降り自殺を図り、二度目の妻は長く精神を患った末に亡くなった。

そう、義母が自宅でひとり死んでいたという知らせを聞いたとき、
私もこのままでは“飼い殺しにされる”と戦慄が走った。





傍から見れば不自由のない暮らしに見えても、
その内実は凍えるほどの愛情の欠乏や、
存在を丸ごと否定されているようかのような日常がある。
書類上あるいは呼び名としてのお母さん役はあるが、その存在は丸ごと無視されている。
それが立派な家庭とみなされる。収入の量で幸せは測れないのに。

言葉や気遣いなどではないとするならば、何でその愛を認識することができようか。
そうして家族の中に狂っていく人がいるというのに、死ぬまで気づかれぬことがあるのか。



私は、心底望む。愛の通う人間関係を経験させて欲しいと。
心の底から渇望する。
生まれ育った家庭でもそれは経験できなかったし、
希望を持って臨み作った新しい家族にもまったく体験できなかった。
私のこの後半の人生がこれまでとまったく違ったものになり得るのなら、
必ずや心通い合う人と、愛を経験させてもらいたいと切に祈る。