息子と私の喜びの経験

小さくなって着られなくなった服をどうしたら良いか、息子が相談してきました。
さっさと処分してしまうこともできるのに、わざわざ聞いてくれたことが嬉しかったです。

以前ブリスベンに住んでいたとき、
不要になった服を回収するので、この袋に入れてドアの外へ出しておいて!
という袋が投かんされていたことを思い出しました。
しかし息子は手間が掛かることを避けたがっているようで、
他のルームメイト達は捨てていると言います。
じゃあそうすればと私から言わせたがっているように感じました。

でもそれを口にすれば、売り言葉に買い言葉でケンカのようになってしまうし、
息子の中にある芽のようなものを潰してしまう行為のように思えたので、
ズバッとひと言で片付けたい衝動をグッと堪え、
息子は何を求めてくれているのだろうという視点に集中することにしました。



息子の生活の中で母親を思い出す瞬間があり、それを実行してくれたのです。
服の行先が重要なのではありません。 
私ならばこうするだろうことを丁寧に述べるだけで、
あとのことはどのようにしようと彼の選択なのだと思えました。
お母さんはまだ使えるものを捨てることが嫌なので、
もらっていただける先を知らないだろうかと周りの人に話していくわよ
とだけ伝え、話を終えました。





数週間経った今、息子から連絡が来ました。
教会に寄付してきたこと、
とても喜んでもらえたと寮のスタッフ経由で聞いたことなどを伝えてきました。

涙が出るほど嬉しいことを息子はしてくれました。
もらうという役を引き受けてくださる方がいてくださることで、
与えた側が豊かな気持ちを味あわせてもらえるのだ
ということを経験してくれたことが嬉しかったです。
寮のスタッフにも相談することによって、
息子がたくさん持っている心のひだを一緒に見届けていただけたことも嬉しかったです。


私が本当の私に戻ることだけに専念していれば、
息子は遠く離れていても、ちゃんとその場所で愛の経験をさせていただけること、
この素晴らしい仕組みに震えています。

神に感謝します。