わたしは神の子として祝福されています

自分が神の子であるとすることに抵抗があるようで、幾日も進めることができませんでした。
レッスンをしてみるものの、現状と認識しているあらゆる不本意を持ち出しては、
こんな惨めな私でも愛されているんだってと憐憫に耽るだけで、
これでは自分の気持ちは救われないと思いました。
自分の心をうやむやにしたままレッスンを進めるならば、
ここ何年も繰り返して来た違和感をさらに重ねるだけなので、それはしたくはありませんでした。

頑張らなくても幸福は受け取れるという趣旨の本を読みました。
布団に入ってから眠りに着くまでの僅かな間だけ、その考えに浸ってみようと思いました。
私に罪はなく、何をするのも許されている、危険などない安全地帯に自分を解放したときの安堵感。
ワルツを踊るような自分を感じて、わたしはこれほどまでに縛られ続けてきたのかと思いました。

幼少期に育った家庭には、この世の悲惨が揃っていました。
殺し合いに発展してしまうほど罵り合う両親に間違いが起こらないように、
その全てに聞き耳を立て、いつでも飛び出していけるよう身構えていました。
私が眠りに落ちてしまえば、父は母を私たち姉妹を殺してしまうに違いないと思っていたので、
決して気を緩めることができませんでした。
夕方5時半きっちりの帰宅から始まり、杯を煽る毎に豹変していく父の狂気。
全力で罵倒するしかできない母。
永遠に続く地獄の中に我が身を置くことが生きているということでした。

この環境下、何とか生き延びました。
努力したことも祈ったことも、どこにも届かないし、何も報われることがない。
そして生まれ落ちた地点でその後の人生も決まってしまっている
という確信だけが積み重なっていきました。
私の中のエネルギーが慟哭となって渦巻いています。
何かに向かわずにはいられません。私はそれを自分に向けました。
自暴自棄になり、やがて鬱になっていったのは、
誰の所為でもなく、私の選択と行いに違いありません。

うまくいかずに別れることになった夫も息子も、
その時は彼らが私を不幸にすると思っていましたが、そうではありませんでした。
私は彼らを見るということをまったくしたことがありませんでした。
私はずっと自分の思いだけを見ていました。
この世は悲惨である。神に見放されている人々がいる。
この思いは無慈悲で、憐れで、救いようがありません。
それを後生大事に握り締めている私。

これを破棄して、反故にして、逆転させる試みをしようというのです。大きなダイナミクスです。
コースを生きようとするとき、私はいつも迫られるのです。